3/17にホテルオークラ東京にて行われた清水正博氏を偲ぶ会に早稲田ヨットクラブシニア会、理事会の有志十数名が出席いたしました。

早稲田大学奥島前総長、白井総長をはじめ、産業界からも多数出席され、

総勢は数百人に及ぶ盛大な会でした。

 

スナップ写真、パンフを添付しますのでご査収ください。


清水正博さんを偲ぶ会

日時 2009年317

場所 ホテルオークラ東京 別館地下二階 アスコットホール

主催 清水正博さんを偲ぶ会実行委員会

 

式次第

開式の辞

黙   祷

略歴紹介

ありし日を偲んで

早稲田大学  奥島孝康

辰  友  会      溝口文雄

東京羽田ロータリークラブ 馬場誠司

北辰工業   菊地 晃

御遺族挨拶

献   奏 「早稲田大学校歌」

献   花  参列者代表

一般献花

開式の辞

 

 

経歴

一九二二(大正一一)年四月七日生まれ

【二〇○八(平成二○)年一二月二一日逝去享年八七歳】

 

一九四七(昭和二二)年 早稲田大学商学部卒業

一九四七(昭和二二)年 株式会社北辰電機製作所入社

一九五一(昭和二六)年 同社監査役

一九五六(昭和三一)年 同社車務取締役

一九六四(昭和三九)年 同社代表取締役社長

一九八三(昭和五八)年 合併により横河北辰電機株式会社代表取締役副社長

一九八五(昭和六〇)年 横河北辰電機株式会社相談役

一九八六(昭和六一)年 横河電機株式会社相談役

一九八七(昭和六二)年 横河電機株式会社相談役・北辰工業株式会社代表取締役会長

 

一九八○(昭和五五)年 藍綬褒章

一九九三(平成五) 年 勲三等瑞宝章

一九九八(平成一〇)年 早稲田大学名誉博士

二〇○〇(平成一二)年 早稲田大学校賓

 

一九六五(昭和四〇)年 ()日本舶用工業会理事

一九六九(昭和四四)年 東京羽田ロータリークラブ会長

一九七一(昭和四六)年 ()日本電気計測器工業会副会長

一九七九(昭和五四)年 ()計量管理協会【現 日本計量振興協会】常任理事

 

 

清水正博

「早稲田大学校賓名鑑 −早稲田大学を支えた人々−」抜粋

発行早稲田大学

発行日 二〇〇二年七月三一日

著者土屋喜一

 

早稲田大学名誉教授         

一九五四〜六三年竃k辰電機製作所勤務

 

清水正博は、一九二二(大正一一)年四月七目、父荘平、母津多恵の長男として東京(千駄ヶ谷)に生まれた。 一九四七(昭和ニニ)年九月、早稲田大学商学部を卒業後、直ちに北辰電機製作所に入社し、監査役、専務取締役を経て、 一九六四(昭和三九)年六月代表取締役社長、 一九八七年代表取締役会長となり、現在相談役である。

 清水について語るとき、北辰電機製作所を創設した父親の荘平について触れないわけにはいかない。

 清水荘平は、 一八九三(明治二六)年二一月、父米作、母みねの次男として、現在の静岡県吉原市に生まれた。生家は富裕な農家であったが、荘平が小学校に通う頃には家計がかなり苦しく、学業成績が抜群だったにもかかわらず中学校に進学することができなかった。向学心に燃えていた荘平は、高等小学校を卒業した翌年、親の反対を押し切って家出同然に東京へ出た。そして幸いにもわが国冶金学の開拓者の一人といわれた俵国一東京帝国大学工科大学(現東京大学工学部)教授の子息の家庭教師に採用され、苦学しながらも一九二二(大正二)年二月、東京物理学校(現東京理科大学)を次席で卒業した。この頃の荘平は無線電話(ラジオ)に関心をもち、俵博士の紹介で浅野応輔博士が所長をしていた逓信省の電気試験所(後の通産省・電子総合技術研究所)に技手として入所した。月給三〇円。 一九歳のときである。因みに、浅野博士はかねてより早稲田大学理工科の顧問をしていたが、束京帝国大学工学部教授(電気工学・電気測定)を退官後、 一九一六(大正五)年に学苑の第二代理工科長に、 一九二〇(大正九)年初代理工学部長に就任して、優れた人材を世に送る礎を築いた人である。

 ところで荘平は、 一年後、職制の壁に不満をもち退職。浅野所長の紹介で東京帝国大学理学部の物理学の大家として知られた長岡半太郎教授の助手となり、四年間を送ったが、研究室の外国製計測器が故障するとドイツ、アメリカに送らなければならず、修理にも長期問かかることを知った。そこで荘平は、計測器の国産化の事業を企てたのである。

 一九一八(大正七)年一〇月、港区三田四国町の町工場に間借りして工業用の熱電高温計の研究試作を従業員四名で閣始、翌年四月、麻布富士見町に工場を設立し従業員一〇名で工業計器の製作に着手した。

 当時は欧米から輸入した計測器が計測の標準晶として尊重されていたが、同社は外国製に劣らない製品の開発に成功し、その後のわが国の産業振興に大きな貢献をした。とりわけ船舶用ジヤイロコンパスなどの航海機器、航空機用精密機器などの生産にも着手し、第二次大戦中には関連の会社を含めて従業員二万名余の大会社に発展させた。

 しかし、一九四五(昭和ニ○)年四月の東京大空襲により、主力工場の八五%が灰燼に帰した。荘平は、八月一五日正午、全従業員を集め、天皇のポッダム宣言受諾のラジオ放送が終わった後、「・・・・・・必勝の決意をもって今日まで頑張ってきたが、ことここにいたっては何もいうことはない。長い問まことにご苦労であった・・・・,上場は必ず再建する・・・・・・」と言葉すくなに挨拶したが、正博によれば「父の人生は日本の敗戦とともに終わった。戦後の会社の再建は後進に全面的に託し、実に潔かった。」という。

 敗戦の一ヶ月後、会社はあらためて従業員四五〇名から再出発した。鉄鋼業、重化学産業、化学繊維産業など、わが国復興の基幹であったプロセス工業に必須の工業計測器、自動制御装置、ならびに学校教育用一六ミリトーキー映写機、航空計器、航海計器などを主力製品として社業はおおいに発展した。

 清水正博は、ちょうどこの時期の一九五六(昭和三一)年に専務に就任し、研究開発を重視して国産技術育成の陣頭に立ち、次々と新製品を開発した。当時、欧米の技術水準へのキャッチアップのため技術提携に頼る企業が多かったなかで、同社は技術導入だけでなく国産技術を相手国に提供できるよう相互協定を締結した。その結果、多くの国産計測制御技術の工業化に成功した。たとえば、 一九五〇年代にはディジタル多点監視装置、テレビ送像用一六ミリ映写機、プロセス用ディジタル電子計算機、工業用電磁流量計など、 一九六〇年代には磁気ドラム記憶装置、トランジスター式電子制御装置、転炉操業用計算制御装置などがあり、いずれもわが国最初の技術成果を上げた。特に、一九六三年にはこれら国産技術の大型輸出契約をルーマニア人民共和国と締結し、同国のオートメーション技術の発展に寄与した。

 その締結の内容は、北辰独自で開発したオートメーション計器に関する特許使用の許可、ノウ・ハウの提供、共産圏諸国に対する輸出の免許などのほか、同圏における計器工場の建設、諸設備、諸施設の指導、計器製作に関する技術教育などをふくむ包括的な援助契約を五年問、報酬133万ドルで結んだ。これは、今日でいう無体財産契約の先駆けというべき出来事であった。また、同年にはアメリカのフィッシヤ・アンド・ポータ社と最高、最新の研究と技術のすべてを無償で二五年間交換しあう締結は、世界的にも例のないクロス・ライセンスの嚆矢としてこれも記憶されよう。

 清水は、こうして同社をわが国オートメーション産業における三大企業のひとつに育てあげたが、一九八三(昭和五八)年には二一世紀の計測器市場を国際的視点から展望し、いち早く長年のライバル企業である横河電機製作所との企業合併を実現させ、売上高世界第二位のメーカーにまで育て、自らは合併新会社の副社長(現在相談役)として企業内融和につとめた。

 以上のように、清水は戦後の産業復興の基盤技術である計測制御機器の開発を基礎に、計測化、自動化、省力化をすすめ、情報化社会の実現に向けて多犬なる貢献をなし、わが国のオートメーション分野の指導的役割を担ってきた業績により、 一九八〇年に藍綬褒章、 一九九三年には勲三等瑞宝章を授与された。

 早稲田大学においては、 一九七四年から二二年問にわたり商議員として、 一九八六年からは賛助商議員として大学の発展のために尽力している。とりわけこの間に多額の資産を教育研究環境整備のために寄贈し、その志は西早稲田キヤンパスの整備計画の一環として一九九八年に竣工した一四号館の建設費の一部に充てられ、学苑の二一世紀を担う象徴的なインテリジェント施設が実現した。さらに、清水の仲介により、関係法人の所有する多額の資産についても寄贈され、その収益事業により学苑の財政に毎年大きく寄与している。

 一九九八(平成一〇)年にその経歴、および社会と学苑への顕著な功績により名誉博士の学位を、そして二〇〇〇(平成一二)年一二月一五日には、二〇世紀の最掉尾を飾るにふさわしい校賓として推挙された。学苑は翌年の二月二三日、校賓名称贈呈式を挙行したが、「本日こうして校賓の名称をいただき非常にうれしい。私は日本人だから、日本が好きだ。また、愛校心もある,自分の生きている間に何かしておきたいと思ったとき、その対象はやはり早稲田だった。私は、人一倍勉強したとか、人一倍愛校心が強いとかいうわけではないが、そんな白分のような者がこれほどの校賓という名称をいただけたということは、あとの人たちにも光明だ。早稲田には世界一の大学になってほしいし、また早稲田ならそうなれると思う」と、その喜びを率直な言葉で挨拶され、二一世紀の早稲田に希望を託された。

 なお学苑は、二○〇○年三月に改築された一四号館を「清水正博記念館」と命名してその名を永く語り継ぐことにした。

 

みなさまがたのお力ぞえによりまして

清水正博さんを偲ぶ会を執り行うことができましたことを

心から御礼申し上げます

発起人代表

発起人

早稲田大学前総長 奥島孝康

NOK椛纒\取締役会長兼社長 鶴正登

辰友会(旧北辰電機OB会)原 啓

東京羽田ロータリークラブ会長 物集女重幸

北辰工業OB会 市川捷美

横河電機椛纒\取締役会長 内田勲

早稲田大学総長 白井克彦

親族代表 水野廉平、晶子